



いと重創業から約6年後の文化12年(1815年)、時の大老となられる井伊直弼公は彦根藩第11代藩主井伊直中の14男として生を受けました。しかし、庶子であり、養子の口も無かったために17歳から32歳までの15年間を三百俵の捨扶持(すてぶち)の部屋住みとして過ごします。その様子はまるで世捨て人にようで、直弼公が自らを咲くことのない埋れ木にたとえたほどでした。
滋賀県の銘菓にも選ばれた当店の「埋れ木」は、直弼公が自分の住まいを「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けたことから命名されております。
部屋住み時代、直弼公は熱心に茶道を学び、石州流を経て新派を確立するほどに大成します。その評判もあり、この頃すでに井伊家との信頼も篤かった当店は、直弼公のために毎日茶菓子を届けていたと伝えられております。また、当舗の仙菓「益寿糖」を、長野主膳(直弼公の国学の師であり、後の家臣となる)に贈ったという文書も残されております。
著書『茶湯一會集』巻頭には「一期一会」とあり、直弼公が世に送り出した言葉であると言われております。
しかし、世捨て人として暮らしていた直弼公に転機がおとずれます。井伊家に想定外の出来事が続き、弘化3年(1846年)、直弼公は兄の井伊直亮の養子という形で彦根藩の後継者に決定したのです。

従四位下侍従玄蕃頭に叙任され、嘉永2年(1849年)左近衛権少将に転任し、玄蕃頭を兼任します。嘉永3年(1850年)には兄の井伊直亮の後を継いで彦根藩主となり、掃部頭(かもんのかみ)となります。自らを埋れ木と称した直弼公はついに花開きます。
彦根藩時代は藩政改革を行い名君と呼ばれ、安政2年(1855年)、左近衛権中将に転任します。安政4年(1857年)には従四位上に叙せられ、その翌年、安政5年(1858年)にはとうとう江戸幕府の大老に就任しました。その直後、アロー号事件で清に出兵したイギリスやフランスの日本侵略を防ぐため、日本と友好的なアメリカと日米修好通商条約を結びます。これにより実質的に鎖国は終わり、日本の夜明けとなりました。
いと重では直弼公に伝えた和の魂と、直弼公によってもたらされた洋の才を融合させて、かつて直弼公が目指した新しい世界への挑戦をはじめます。
和と洋の一期一会を是非一度ご賞味くださいませ。
| 文化12年(1815年) | 井伊直弼、十一代彦根藩主井伊直中の第十四男として誕生 直弼、父と死別し藩の公館「北屋敷」へ移され質素な書生生活を強いられる。 自らの埋もれた境遇から「北屋敷」を「埋れ木の舎(うもれぎのや)」と名づける。 |
| 弘化3年(1846年) | 兄である井伊直亮の養子となり、彦根藩の後継者に決まる。この時、従四位下侍従蕃頭に叙任される |
| 嘉永2年(1849年) | 左近衛権少将に転任し、玄蕃頭を兼任 |
| 嘉永3年(1850年) | 三十六歳で第十三代彦根藩主彦根藩主となり、掃部頭(かもんのかみ)となる |
| 嘉永6年(1853年) | 浦賀にペリー来航、直弼、幕府に対し開国を主張する書簡を 提出。 |
| 安政2年(1855年) | 左近衛権中将に転任 |
| 安政4年(1857年) | 従四位上に叙せられる |
| 安政5年(1858年) | 江戸幕府大老に就任 |
| 安政5年6月19日 (1858年7月29日) |
日米修好通商条約を結ぶ |
| 安政5年〜6年 (1858年) |
安政の大獄 |
| 安政6年(1859年) | 正四位上に叙せられる |
| 安政7年3月3日 (1860年3月24日) |
水戸藩浪士により、江戸城桜田門付近で暗殺される(桜田門外の変) |
| 昭和38年(1963年) | NHK大河ドラマ「花の生涯」で井伊直弼公の生涯が描かれる |
| 昭和43年(1968年) | 彦根市と水戸市は、明治百年を契機に歴史的わだかまりを超え、「親善都市」提携を行った。 |
ホームページ制作 立命館大学 和菓子 紅茶 滋賀県文化振興事業団 しが県民芸術創造館 文化産業交流会館 滋賀会館 希望が丘 レーシック FX 中古車 チワワ ブリーダー インプラント 東京 税理士 大阪 振袖 電話占い 興信所 地熱 ワイン 通販 パワーストーン 水晶 デジタルカタログ制作 転職